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萬川集海

(『萬川集海』初出/'02.12.28)

 戦国の世も終わりを告げて久しい頃に編まれた、忍びの存在を僅かに現在に示唆する書にある。

   『音もなく、匂いもなく、形もなく、有名もなし』
   『その功、天地造化の如し』

 熟した果実の自然(じねん)に地に落つるように、忍びの為す業は而して宿命の為すがごとし。そこに人為の介する余地はない。行灯の焔を吹き消した、差し込む風の行方を探る者などいない。まばたく間の瞼の闇に、注意して恐れおののく者もいない。


 するりと抜ける一陣の闇は、何者にも見咎められることはなく、誰に留意されることも記憶されることもなかった。
 肉体と精神の全てが天の理りに融ける時、果たしてそこに生命は存在するだろうか。否、肉体の存在すらも疑わしく思いはしないか。
 忍びに生まれつき、忍びとして存在し続けてきた男は、次第に自らの内に脈打つ生命の鼓動を感じなくなってゆき、ある時ふいに己が人ならざる所以に思い当たると、愕と膝を付いた。
 この現し世に、自分という個は本当に存在しているのかと。
 ──人外の化生。光の差さぬ処に影ができる道理はなく、ただここに在るのは深遠なる闇のみであると知る。

 

「あんたはん、人間と違いますやろ?」
 いつにも増して高慢ちきに、そう言ったのはアラシヤマ。
 知りえまい、他の全てに対する敵愾心とその野心を以って己を誇示する、確かに存在する者には。
「わては好きやけど。そんなん」
 彼は知らないのだろう。彼の心底に仄暗く燃える炎の闇と、この身が宿す真の闇が、あまりに異質であることを。
「のう、たまには、笑ろてみい」
 いつになく神妙な面持ちで、そう言ったのはコージ。
 分かるまい、数多を包む込むぬくもりとその大器を以って己を明示する、確かに存在する者には。
 彼は知っているのだろう。彼の磊落たる笑顔と、この身に張り付いた人懐こい笑顔が、あまりに異質であることを。

 

 ある時、闇は、影になった。
 彼に出会ったことは、今にして思えば、きっと必然のことだったように思う。
 己が鼓動を、生命が脈打つことを、この身が息吹きするのを実と感じた。まるで、一介の人のように。
 すれ違った時、微かに、けれど確かに、太陽の匂いがしたと思った。軽やかに流れる金色の髪が与えるイメージだけのものではあるまい。彼の纏う空気には久しく知らぬひだまりのそれがあった。
 すべての川が海を目指すように、自分は彼に辿り着いたのだ。
 フト胸に手を添えてみると、かつてなく躍ねる鼓動が、確かにここに存在を示した。彼が、自分に生命を与えてくれたのだと思った。
 それから後も自分には、有名も功名もないだろう。誰の記憶にも残らぬように、忍びとしての本分を全うし、忍びとして露と消ゆることに、変わらず何ら迷いも拘泥もない。
 ただ、そのかがやきを以ち忍びをして断崖に人たらしめた彼にだけ、己が存在したことを憶えていて欲しい。
 ただ、それだけを、強く願う。

 ──人外の化生。

 その時、彼は、影になった。

・了・